唇の温度
「彼女、できたから。」
斜め下の自分の影を見ながらできるだけ、冷静にそう言う。
反応が無いのでちらりと彼を見るが、すぐに見なければよかったと思った。
彼はひどくおもしろそうにこちらを見ていてその目は微かに笑っていたのだ。
動物園の檻を見る、子供のような目だ。
そして彼は俺の大嫌いな愉快そうな声でいともたやすく言い放った。
「どこまでいったの?」
信じらんねぇ。
その言葉を、この俺に言うか?
カッと顔が熱くなってくるのと同時に、俺はドアを蹴飛ばし外へと飛び出した。
『どこまでいったの?』だって?ふざけんな。
別に俺だってあの程度の言葉は言ったり言われたりする。
もっと下卑た言葉だって平気で言う。
ただやつの場合は、俺の気持ちを知ってのことなのだ。
人の一番柔らかくて綺麗な部分を平気で傷つけて楽しそうに笑う。
それが奴のやり方だ。
そして俺はその見事な手腕で何度も傷つけられてきた。
やつは最低最悪の人種だと俺は思っている。
きっと顔はまだ赤い。怒りも収まらない。
前を何歩も先へ歩く自分の影を追いかけながら大股で歩く。
何かを振り切ろうとするかのように。
向かうは可愛い彼女の元。
きっと彼女なら傷ついた俺を癒してくれるはずだ。
どっかの誰かと違って、優しい声で「どうしたの?」と顔を覗き込んでくれる。
だけど、彼女を思い出そうとしてもあの憎たらしい顔の方が鮮明に浮かんできて、余計俺は腹が立った。
あのひどく整った青白い顔。笑うと猫みたいでとても…この先は止めておこう。余計自分に腹が立つ。
そうこうしていると彼女の家へついた。
約束していた時間よりも30分も遅れていたのに彼女は玄関の前に立って、こっちに向かって手を振っていた。
あいつだったら絶対こんなことしないな。
「遅いよ。どうしたの?」
やっぱり彼女は優しかった。
羽毛みたいに俺の心を優しく撫でてくれる。
「ん。遅れて悪かった。」
そう答えると彼女はにっこり笑った。
さすが学年でトップの人気を騒がれるだけあるな、と妙に冷静な心持でその笑顔に答えた。
「あがっていい?」
彼女は今度ははじらいをみせながら、やっぱりにっこりと笑った。
彼女曰く、今日は誰にも家にいない。だから家に来て欲しい。要するにこれはセックスをしようとのお誘いみたいなものだ。
確かに、俺と彼女は付き合ってから割りと時間がたっているような気がする。これが普通なんだろうな。
いつもよりも緊張気味の彼女と彼女の女の子らしい部屋で他人のような視点でそう思った。
あそことは全然違うな。
何かの甘い匂いを感じながら彼のいる部屋に思いをはせた。
部屋の主と同じなんの匂いも存在も感じさせない。冷たい打ち抜きのコンクリートの部屋。
無駄にでかいソファにだるそうに腰掛けてる彼はソファと同じ排他的で無機質な白さをしている。
今あいつはどうしてるんだろう。
「ねぇ、聞いてる?」
真っ黒な大きい目がこちらを覗き込む。
茶色いストレートの髪がさらりと揺れた。
彼とすべてが正反対の存在。
頭の隅で笑う声が聞こえる。
『どこまでいったの?』
彼女の肩に触れる。細くて丸くて頼りない肩。あいつの骨ばって薄い肩とは全然違う。
彼女の肩がびくりと揺れるのが素直に愛しく思えた。
優しい、いたわるようなキスをする。
柔らかくて弾力があって小さい。
あいつの唇はこれと正反対だ。
薄くて冷たそう。
体の何もかもが冷たそう。
何度かキスをしていつの間にかに服を脱いだ彼女の首筋に顔をうずめる。
シャンプーの人工的な甘い香り。
柔らかくて暖かい体に手を滑らせる。
あいつの薄い筋肉に張り付いたような皮膚とは違う皮膚。
あいつの病的な青白さよりも健康的な色の白さ。
あいつの平べったい色気の無い胸とは違うもったりとした白い乳房。
何もかもがあいつと違い過ぎる。
彼女の汗ばんだ内腿に手を這わせた瞬間けたたましい携帯のベルが鳴った。
俺の、携帯だ。
まさか
「もしもし!」
ばっと噛り付くように携帯に呼びかけると沈黙があった。
心の底で微かに期待していたもの。
「もしもし!」
愚かな高揚感。
「サスケ、来て」
ベッドの下にちらかされていたシャツをひっつかむとオレは後ろを振り返りもせずに駆け出した。
ああ、俺は馬鹿じゃないのか。可愛い彼女を置いてこんなにも急いで。
どうせまたあいつの冗談に決まってる。
でも、いてもたってもいられないんだ。
あいつのたった一言で俺は犬みたいに必死になる。
俺は、本当に馬鹿だ。
「カカシ!」
飛び出したときと同じ勢いで部屋に駆け込んだ。
息が整わないのに無理して声を出したのでひどく咽る。涙も滲んできた。
こめかみを流れる汗をシャツのすそで拭うとソファへ近寄った。
けぶるような銀糸がこちらを向く。
「本当に帰ってきた。」
「いいとこだったんでしょ?」と言って声を出して楽しそうに笑うのを見て本気で首を絞めてやろうかと思った。
そうしてその後で俺も死んでやる。
握り締めた拳が微かに震える。
「犬みたいだよね。」
そうしてソファから身を乗り出して俺の頭をぽんぽんとたたいた。笑いながら。
頭に伸ばされている骨ばった柔らかくもない腕を力の限り握り締めた。このまま折れちまえばいい。
「あんたなんか、大っ嫌いだ。」
ぎしぎしとしなる腕を見たあとカカシは色違いの目で俺を見て、にっこりと花のように笑った。
綺麗な、はっとするような笑い方で。
「俺は、好きだよ。」
お前が
薄い唇がゆっくりと動いた。
安っぽいくせに甘い笑みを張り付かせたまま。
そういうことをあんたは軽く笑いながら言う。
どうせ本当はなんとも思っちゃいないんだ。
現に今だって新しい玩具を見つけたような顔してる。
「そういう…こと言う、あんたが、嫌いだ。」
俺は、馬鹿だ。
可愛くて優しい彼女を捨てて、こんなにも愚かで最低な男に恋をするなんて。
こいつなんかじゃなくて彼女を好きになれたならばよかった。
俺は、本当に馬鹿だ。それなのに彼女といるときよりも今のが何倍も胸が高鳴る。
ああくそ、こんなにも俺はこいつのことが好きなのか。
そう思うと急に鼻の奥がつんと痛くなって舌が上ずりそうになった。
力いっぱい握って赤い痕をつけた腕をひっぱり寄せ、キスをした。
噛み付くような強引なキス。
カカシは拒まなかった。
むしろ楽しんでいるように、やっぱり笑っているようだった。
俺の大好きな憎たらしい綺麗な顔で。
吐息の合間にありとあらゆる想いを込めて血を吐くように呟く。
「あんたなんか大っ嫌いだ。」
そうして笑う唇にもう一度キスをした。
<死ぬほど大嫌いなのに、憎たらしい笑みも痕のついた腕も腐った性格も手放したくないと思うのは、キスをした時の唇の温度が思ったよりも高かったからなんだと思うことした。>